Monday, July 21, 2014

上原良司

上原良司

上原 良司
Ryoji Uehara.jpg
佐賀県の目達原基地にて
生誕 1922年9月27日
日本の旗 日本 長野県池田町
死没 1945年5月11日(満22歳没)
日本の旗 日本 沖縄県嘉手納
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1943年 - 1945年
最終階級 陸軍大尉
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上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人

人物・来歴

長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。2人の兄、良春と龍男はともに慶應義塾大学医学部を卒業後に軍医となり、龍男は良司が慶大に進学した年に、ニューヘブリデス諸島の沖で潜水艦と共に沈んで戦死している。
旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、経済学部在学中に徴兵猶予停止によって学徒出陣、大学を繰り上げ卒業した。1943年12月1日に陸軍入営[1]歩兵第50連隊に配属となり、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育隊にて操縦訓練を開始し、1944年熊谷陸軍飛行学校を卒業した。
1945年5月11日、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗して知覧から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22。
戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。この文章は多くの人々の胸に響き、映画「きけ わだつみのこえ」やドキュメンタリー番組でも特集されるなど戦没学生の手記の代表格とされ度々取り上げられている。なお、特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に「所感」を託していた[2]
2006年10月22日、池田町に上原の記念碑(石碑)が建立された。

遺書

「所感」

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。 思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、 これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。 人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、 底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、 かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。 我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。 ファシズムイタリアは如何、ナチズムドイツまたすでに敗れ、 今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。 自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。 現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。 既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。 真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。 操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。 理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。 精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。 ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。 愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。 過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。 何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。 明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で

遺本

遺本となった羽仁五郎著「クロォチェ」にはところどころに○印が付され、それをたどると愛する女性へ送られた言葉が浮かび上がる。
「きょうこちゃん、さやうなら。僕は きみが すきだつた
しかし そのときすでに きみは こんやくの人であつた わたしは くるしんだ。
そして きみの こうフクを かんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした
しかし わたしは いつもきみを あいしている」
上記の遺書「所感」の後半に「天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思う」と記されているが、その彼女こそが、「きょうこちゃん」こと石川冾子である。石川は上原の日記にもたびたび登場しており、「こんやくの人であつた」と記されているように、1943年に他の男性と婚約している。「天国において会える」と書いているのは、石川が1944年に結核で病死しているためである。上原は過酷な訓練の毎日においても、常に石川に対して淡い恋心を抱いていた。

関連項目

脚注

外部リンク

Saturday, September 22, 2012

自由と人権

自由と人権

「自由」と「人権」のかねあいの問題である。個人の人権が侵害されてはならないのは言うまでもないが、そのために言論などの「自由」が冒され、また制限されてよいか、あるいは、「言論の自由はどこまで認められるか」という問題がある。

基本的な考え方の前提としては、人間には「悪」をも犯す「権利」も保障されなければならないということである。なぜなら、ここにこそ「自由」の核心があり、人間の尊厳も本質もここにあるからである。人間の自由は「善悪」を知ること、意識できることと、その二者のいずれを選択するか、その自由にあるからである。人間は動物とは異なり、環境や必然性に完全に制約されるのではなく、少なくとも意識においては、完全に自由な存在であるということである。

ここで問題にすべきは、一般にいわゆる「人権」論者や「社会主義者」「共産主義者」たちが、彼らの妄想する「理想主義」を実現するためと称して、人間から「悪」をも犯すことさえ、強圧的に禁じようとする傾向があることである。

「無菌状態」の社会、「聖人君子」ばかり「善人」ばかりの社会をどう考えるか。

先に述べたような人間の本質から言って、実際には完全な「理想社会」はあり得ないのであるが、往々にして、「理想」を実現しようとして、かえって最悪の「現実」を招くことも多い。社会構成の構成原理として、人間性悪説か人間性善説のいずれの立場に立つか、ということである。いずれの人間観に立つかによって、構成原理は根本的に異なる。

とくにこの傾向は、プロレタリア独裁として、敵対するブルジョア階級の「搾取」の暴力的禁圧という現象に象徴的に現れている。かってのソ連邦などのいわゆる共産主義国家の実験によっても、その歴史的な帰結は、体験され証明されている。その浅薄な人間観と思想の現実がある。

「人権」と「自由」という二律背反することがらをどのように克服するか。「人権」と「自由」の価値を比較考量する時、どちらに根本的価値を認めるかによって、いわゆる人権法案などの制定問題にどのような立場を選択するか、が決まる。というよりも、自由こそが人間にとっての至高の人権であるから、「自由」は「人権」に優先する。「自由」を制限する法案は、必要最小限にとどめておかなければならない。

このたび民主党や自民党の一部の議員たちによって提出制定されようとしている、いわゆる「人権救済法案」については、このような理由から賛成できない。
我が国の人権状況については、現行法で「人権」は十分に守られうると考える。あらためて、「人権救済法案」などを法制化して、新たに行政組織をつくることは政府機構の簡素化に逆行するし、官僚公務員や人権団体関係者らの「利権化」にもつながりかねない。行政の肥大化と硬直化を招くことになる。国民の人権は、すでに現行法規によって十分に守ることができる。


民主党内閣は、人権救済法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙って閣議決定したそうである。民主党の情報隠蔽体質、陰謀体質は、自民党時代に輪をかけて悪質である。


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【主張】人権救済法案 強引な閣議決定おかしい

2012.9.20 産経新聞社説 http://goo.gl/RPsjm

野田佳彦政権は、新たな人権侵害や言論統制を招きかねないとの批判が出ていた人権侵害救済機関「人権委員会」を法務省外局として設置する法案を閣議決定した。

今回の閣議決定は不可解な部分が少なくない。藤村修官房長官は「政府として人権擁護の問題に積極的に取り組む姿勢を示す必要がある。次期国会提出を前提に、法案内容を確認する閣議決定だ」と強調した。

だが、国会提出時には再度、閣議決定を経る必要がある。人権救済法成立に前のめりな党内グループに過度に配慮しただけではないのか。同法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙った節もあり、疑念がつきまとう。

人権委員会は政府から独立した「三条委員会」で、公正取引委員会と同様の強大な権限を持つ。調査の結果、人権侵害と認められると告発や調停、仲裁などの措置が取られる。
最大の問題は、人権侵害の定義が相変わらず曖昧なことだ。「特定の者」の「人権」を「侵害する行為」で憲法違反や違法行為を対象とするというが、 これでは何も定義していないに等しい。恣意(しい)的な解釈を許し、言論統制や萎縮、密告による新たな人権侵害を招きかねない。


こうした法案への疑念や危惧、抵抗感は国民は無論、与党や閣内にも根強い。にもかかわらず、いま行われている民主党代表選、自民党総裁選で、この問題が問われていないのは重大な欠落だ。

閣議決定に対し、自民党の林芳正政調会長代理は「なぜ、この時期なのか」と政府の意図に疑問を投げた。安倍晋三元首相も法案に対し「大切な言論の自由の弾圧につながる」と指摘した。石破茂前政調会長は以前、法案に反対としながらも、救済組織の必要性は認めていた。

政府・与党は先の通常国会終盤にも法案提出に意欲を示したが、批判を受けて見送ったばかりだ。国論が二分している法案を閣議決定して既成事実化するやり方は、到底適切な手続きといえない。

自民党内にも人権法案に前向きな意見もあるが、言論統制とは無縁の自由な社会を維持するために果たしてこの種の法案が必要なのか。民主、自民両党首選の立候補者は少なくともこの問題への立場を鮮明にし、国民的な議論を積み重ねてもらいたい。

© 2012 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

Tuesday, November 08, 2011

我がWERDENの哲学

我がWERDENの哲学
――哲学小説
目次
第1章 キリスト教
第2章 民主主義
第3章 自由
第4章 国家
第5章 市民社会
第6章 性
第7章 神
第8章 哲学そのもの
第9章 死
第10章 音楽
第11章 悪魔
第12章 故郷
第13章

Thursday, January 14, 2010

新春のお慶びを申し上げます。



上の写真は2010年1月2日午前8時の、忍野富士

富士山ライブカメラ
http://www.fujigoko.tv/live/index.html


新春のお慶びを申し上げます。

昨年はアメリカ発の疑似世界恐慌で、全世界が揺れた一年でした。しかし、金融不安からもっとも遠く安全地帯にいたはずの日本が、低温火傷の被害のように、もっとも深刻に、長く経済不況を蒙っているように見えます。鳩山民主党の掲げた、子ども手当や高校授業料無償化、農業の戸別補償などの雇用・環境、景気対策における「バラマキ」は、この緊急非常時に、国民に対して財政再建のための耐乏と貢献、犠牲の覚悟を促すのではなく、むしろ甘やかし政策になっている。これで財政破綻を招くことになれば(その可能性は高い)、国民経済を本当に救うことにはならないのです。一時しのぎのモルヒネ注射にしかなりません。

本当に必要なのは、「バラマキ政策」ではなく、新産業、新事業の開発、新しく若い企業家の育成であり、そのための財政金融支援、教育支援です。経済の再活性化のために重点的、集中的に財政投融資して、とくに人口少子化対策にはあらゆる手を打たなければなりません。今の鳩山政権の経済政策は、後ろ向きの「バラマキ、甘やかし」の弥縫策に終始してます。そんな時期に福島瑞穂少子化担当相など、とうていその任に堪えないブラックユーモアでしかありません。

昨年の一年は、戦後になってようやく曲がりなりにも政権交代らしい政権交代を果たしました(小沢一郎氏などについても悪口を言うばかりではなく、その功罪をきっちりと評価すべきでしょう)。しかし、だからといって日本の政治がまともなものになったとはとうてい言えません。さらに自民党を消滅させ、また、現在の「旧社会党」系民主党をも分解させて、政界の再編成を図ることが当面に残された次の課題になっています。

長く続いた55年政治体制の旧政界の廃墟の上に、新自由党と新民主党による真の二大政党によって、さらに日本国の自由と民主主義を充実させながら、立憲君主国家体制をさらに発展させて行く必要があります。そうして、本当に健全な国家社会を建設して行くことによって、バブル経済の崩壊以来、毎年三万人を越える自殺者が出ているような悲惨な社会状況を改革して行く必要があります。

こうした課題は、新憲法の制定と並行して実現して行く必要のあるものが多い。衆議院、参議院の定数削減、道州制国家体制、公務員制度の全面的な行政改革、全寮制の中高一貫教育(現在の民主党政権で高校教育の実質的な無料化は進んでいますが)や、保育所・幼稚園の統合、国民皆兵制度の制定など、教育制度の全面的な改革などとも並行してゆく必要があります。明治維新を越える平成維新として根本的な国家体制の変革をさらに準備して行かなければならないと思います。

鳩山民主党は、危ういながらも、アメリカ依存からの相対的な独立を実現し始めているのはよい。ですが国家に真の独立を求めることが、国民にどれほどの負担と覚悟を求められるものであるかを、国民に十分に周知、教育、納得させるという前提抜きで、早急にことを運ぼうとしています。こうした歴史的な課題の実現には、十分な歳月と準備が必要です。向後百年を要する政治的な課題でもあるのですから、工程表を明らかにして、着実に腰を据えて実行してゆくべきでしょう。

今年も世間に対する愚痴から、新年のご挨拶を始めてしまいましたが、何はともあれ、どうか本年が多くの人々にとって、平安と歓びに満ちたさらに豊かな一年になりますよう、ささやかな祈りを込めて、新年のご挨拶をお送りします。

相変わらず和歌の修行も余裕のない私には、自分の言葉で春の心を詠むことができません。せめて西行法師の心を懐かしむばかりです。

世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々、寄レ霞述懐といふことを 詠める 

722  そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思い立つかな

    おなじ心を

724  世をいとふ 名をだにもさは  留め置きて  
       数ならぬ身の  思い出にせむ
       
世を遁れける折り、ゆかりありける人の許へ 言ひ送りける

726 世の中を 背きはてぬと 言ひ置かん 思ひしるべき 人はなくとも



Thursday, January 26, 2006

ホリエモン氏の栄光


ネットでニュースを見ていると、次のような見出しが目に入った。ホリエモン逮捕、ヒルズから拘置所へ [24日09:29] http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0003.html ホリエモン、金で買えないものがあった [24日09:30]http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0007.html ライブドア社内動揺…泣き出す女性社員も[24日08:05 http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0009.html

これらの見出しを読んで、三度笑ってしまった。ホリエモン氏は、どこまでも面白い人だ。しかし、幸福な人でもある。なぜなら、彼はヒルズの高級マンションから、小菅の東京拘置所へと普通の凡人では到底体験できないような得がたい経験をしているから。ある意味ではうらやましくもある。

冗談はさておき、ここで私が論じ試みようとしているのは、堀江貴文氏(以下ホリエモン氏と呼ばせてもらいたい。)の人物論であり、この人物を取り巻く社会評論である。

この事件が明らかにしたのは、いうまでもなく小泉改革の一つの否定的な側面である。その事実は否めない。小泉改革はいうまでもなく日本社会で郵便貯金を株式市場へ誘導することによって、グローバリズムに対応した社会形成を行おうとしたものである。そうした時代的な背景で、ホリエモン氏は時代の寵児になった。かって一度ホリエモン氏が世上に話題になったとき、私も論じたことがある。
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20050403

そこでは、ホリエモン氏の意義と限界について考察したつもりである。そして、その社会的な背景として、「グローバリズム」があった。金融自由化によって、日本も直接に外国資本の攻勢にさらされることになった。そうした政策のもとでは下流社会という言葉の流行に見られるような階層の固定化、格差の拡大などが必ず起こる。

ホリエモン氏はただ正直にその波に乗っただけである。彼の著書「稼ぐが勝ち」の金銭哲学によると「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます」ということである。一定の真実は衝いていると思う。また、実際に金で買えないものがあるかどうか。ホリエモン氏は拘置所からお金を払って出してもらい、裁判所にお金を払って減刑してもらえば良いと思う。宗教を持たない現代日本人はこうした拝金主義に対する抵抗力は弱い。
そして、彼はその限界を超えてしまった。意義と限界のすれすれで存在を許されていたのに、その資本の論理を優先して限界を超えてしまった。つまり、国家の定めた法律違反を犯してしまった。

この「社会現象」から、何を読み取るべきなのか。ホリエモン氏は新しいタイプの日本人である。竹中氏や小泉首相は、小さな政府を目指すと言っている。実際現在の日本の財政状況では、小さな政府を目指さざるを得ないだろう。それはまた、否応なく日本もグローバル化にさらされるということである。グローバル社会の本質は何か。それは市民社会の生活であり、利己主義の社会であり、金銭が神の社会である。つまり、グローバリズムの完成とは、世界のユダヤ化の完成であり、現代のユダヤ人であるアメリカによる世界支配の完成でもある。ホリエモン氏はこうした時代を背景に生まれてきた「日系ユダヤ人」である。しかし、この現状はいつまでも放置されていてよいものではない。

今回のホリエモン氏の逮捕は、国家の逆襲とも言える。市民社会も国家の法律の統制を受けると言うことである。ホリエモン氏の思い上がり、町人の思い上がりが、武士(国家)によって切り捨てられたということである。

市民が国家を意識しなくなるとき、そこでは市民社会の剥き出しの利己的欲望が顔を出すのであって、そこからは国家や民族の品位や高貴な香りは消える。ホリエモン氏にそうしたものはない。だから限度を超えたのである。ホリエモン氏は国家の力を過小評価してきたのである。ホリエモン氏ばかりではなくて、戦後の六十年、戦前戦中の過剰な国家介入に嫌気をさして、その反動に戦後の民主主義を市民社会利己主義と誤解してそれを謳歌してきた現代の日系ユダヤ人たちは、あらためて、国家の復権の前に、自分の無力さを思い知らされたことだろう。ホリエモン氏も国家(法律)の威力の前に、お金や地位や名誉のはかなさを少しは思い知らされたかも知れない。

ホリエモン氏も国家のために身命を犠牲にした日本軍兵士のことを思い出して、もう少し謙虚になるべきだった。市民社会人ホリエモン氏も、今回の事件で、特殊は普遍に従属させられるものであるということを、少しは身体で学んだことと思う。

そして、これはまた世代論でもあり、教育論でもある。今日の二十代、三十代の青少年は、というよりも、団塊の世代も含めて、すべて、戦後世代の日本人の意識の中に国家という存在はない。教育もされていない。民主主義が、国家とは無縁の市民社会利己主義に誤解され教育されてきた。この教育の欠陥は無数の小ホリエモン氏を生んでいる。戦後の国家と民族が品位を取り戻すためには、国家と真の民主主義が回復されなければならないのである。

そうした彼らに、これからも国家によって市民社会の限界を自覚させられるときが再三訪れるだろう。中国やアメリカへの進出で、この世の春を謳歌しているトヨタ自動車などの国際的企業もいずれグローバリズムに対する国家の反逆に直面するときが来るかも知れない。近未来に起こること、それは中国の民族主義の猛威である。

改革にも必ず、光と影がある。だから、絶え間ない改革によって光をあくまで追求するとともに、その光によって生まれる影についても、常に手当てや配慮を怠ってはならないという教訓を、今回のホリエモン氏の事件から学びうると思う。