Thursday, January 26, 2006

ホリエモン氏の栄光


ネットでニュースを見ていると、次のような見出しが目に入った。ホリエモン逮捕、ヒルズから拘置所へ [24日09:29] http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0003.html ホリエモン、金で買えないものがあった [24日09:30]http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0007.html ライブドア社内動揺…泣き出す女性社員も[24日08:05 http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0009.html

これらの見出しを読んで、三度笑ってしまった。ホリエモン氏は、どこまでも面白い人だ。しかし、幸福な人でもある。なぜなら、彼はヒルズの高級マンションから、小菅の東京拘置所へと普通の凡人では到底体験できないような得がたい経験をしているから。ある意味ではうらやましくもある。

冗談はさておき、ここで私が論じ試みようとしているのは、堀江貴文氏(以下ホリエモン氏と呼ばせてもらいたい。)の人物論であり、この人物を取り巻く社会評論である。

この事件が明らかにしたのは、いうまでもなく小泉改革の一つの否定的な側面である。その事実は否めない。小泉改革はいうまでもなく日本社会で郵便貯金を株式市場へ誘導することによって、グローバリズムに対応した社会形成を行おうとしたものである。そうした時代的な背景で、ホリエモン氏は時代の寵児になった。かって一度ホリエモン氏が世上に話題になったとき、私も論じたことがある。
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20050403

そこでは、ホリエモン氏の意義と限界について考察したつもりである。そして、その社会的な背景として、「グローバリズム」があった。金融自由化によって、日本も直接に外国資本の攻勢にさらされることになった。そうした政策のもとでは下流社会という言葉の流行に見られるような階層の固定化、格差の拡大などが必ず起こる。

ホリエモン氏はただ正直にその波に乗っただけである。彼の著書「稼ぐが勝ち」の金銭哲学によると「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます」ということである。一定の真実は衝いていると思う。また、実際に金で買えないものがあるかどうか。ホリエモン氏は拘置所からお金を払って出してもらい、裁判所にお金を払って減刑してもらえば良いと思う。宗教を持たない現代日本人はこうした拝金主義に対する抵抗力は弱い。
そして、彼はその限界を超えてしまった。意義と限界のすれすれで存在を許されていたのに、その資本の論理を優先して限界を超えてしまった。つまり、国家の定めた法律違反を犯してしまった。

この「社会現象」から、何を読み取るべきなのか。ホリエモン氏は新しいタイプの日本人である。竹中氏や小泉首相は、小さな政府を目指すと言っている。実際現在の日本の財政状況では、小さな政府を目指さざるを得ないだろう。それはまた、否応なく日本もグローバル化にさらされるということである。グローバル社会の本質は何か。それは市民社会の生活であり、利己主義の社会であり、金銭が神の社会である。つまり、グローバリズムの完成とは、世界のユダヤ化の完成であり、現代のユダヤ人であるアメリカによる世界支配の完成でもある。ホリエモン氏はこうした時代を背景に生まれてきた「日系ユダヤ人」である。しかし、この現状はいつまでも放置されていてよいものではない。

今回のホリエモン氏の逮捕は、国家の逆襲とも言える。市民社会も国家の法律の統制を受けると言うことである。ホリエモン氏の思い上がり、町人の思い上がりが、武士(国家)によって切り捨てられたということである。

市民が国家を意識しなくなるとき、そこでは市民社会の剥き出しの利己的欲望が顔を出すのであって、そこからは国家や民族の品位や高貴な香りは消える。ホリエモン氏にそうしたものはない。だから限度を超えたのである。ホリエモン氏は国家の力を過小評価してきたのである。ホリエモン氏ばかりではなくて、戦後の六十年、戦前戦中の過剰な国家介入に嫌気をさして、その反動に戦後の民主主義を市民社会利己主義と誤解してそれを謳歌してきた現代の日系ユダヤ人たちは、あらためて、国家の復権の前に、自分の無力さを思い知らされたことだろう。ホリエモン氏も国家(法律)の威力の前に、お金や地位や名誉のはかなさを少しは思い知らされたかも知れない。

ホリエモン氏も国家のために身命を犠牲にした日本軍兵士のことを思い出して、もう少し謙虚になるべきだった。市民社会人ホリエモン氏も、今回の事件で、特殊は普遍に従属させられるものであるということを、少しは身体で学んだことと思う。

そして、これはまた世代論でもあり、教育論でもある。今日の二十代、三十代の青少年は、というよりも、団塊の世代も含めて、すべて、戦後世代の日本人の意識の中に国家という存在はない。教育もされていない。民主主義が、国家とは無縁の市民社会利己主義に誤解され教育されてきた。この教育の欠陥は無数の小ホリエモン氏を生んでいる。戦後の国家と民族が品位を取り戻すためには、国家と真の民主主義が回復されなければならないのである。

そうした彼らに、これからも国家によって市民社会の限界を自覚させられるときが再三訪れるだろう。中国やアメリカへの進出で、この世の春を謳歌しているトヨタ自動車などの国際的企業もいずれグローバリズムに対する国家の反逆に直面するときが来るかも知れない。近未来に起こること、それは中国の民族主義の猛威である。

改革にも必ず、光と影がある。だから、絶え間ない改革によって光をあくまで追求するとともに、その光によって生まれる影についても、常に手当てや配慮を怠ってはならないという教訓を、今回のホリエモン氏の事件から学びうると思う。